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ルーネンバーグ奇襲 (1756年) : ウィキペディア日本語版 | ルーネンバーグ奇襲 (1756年)[1756ねんのるーねんばーぐきしゅう]
1756年のルーネンバーグ奇襲(1756ねんのルーネンバーグきしゅう)は、フレンチ・インディアン戦争中の1756年5月8日に、フランスと同盟関係にあったミクモー族とマリシート族の民兵が、イギリス人植民地のルーネンバーグを襲撃した事件である。この奇襲には、ミクマク族も参加していたといわれている〔Diane Marshall, ''Heroes of the Acadian Resistance'', Formac, 2011, p. 149.〕 。民兵たちは、ルーネンバーグの砦の北にある2つの島、ジョン・ルース島とペザン島(現在のコビー島)を襲撃した。これにより、ペザン家の主人ルイが殺されて頭皮を剥がれ、彼の幼い子供と使用人も殺された。 ==歴史的背景==
1749年6月21日に、エドワード・コーンウォリスが、13隻の輸送船と共に、ハリファクスを建設するべくアカディアに到着した。これは後にル・ルートル神父戦争の原因となった〔Grenier, John. ''The Far Reaches of Empire. War in Nova Scotia, 1710-1760''. Norman: U of Oklahoma P, 2008〕〔Thomas Beamish Akins. ''History of Halifax'', Brookhouse Press. 1895. p 7〕。イギリス人たちは、一方的にハリファクスを建設し、1726年に締結されたミクマク族との条約を反故にした〔Wicken, p. 181; Griffith, p. 390 参考文献に詳しい記載なし。〕。その後、1749年から1752年にかけて、フランスやドイツの、プロテスタントの移民のための植民地が建設されるようになっていった。 これら新しいイギリスの植民地の発展を妨害するべく、マリシート、ミクマク族、そしてアカディア人は多くの襲撃を植民地に対して仕掛けた。例えば1751年のダートマス奇襲などである。この一連の襲撃行動の最中、フランス軍はミクマク族に、イギリス兵の頭皮に対して懸賞をかけた。その報復として、イギリスはアメリカ植民地の猟兵(レンジャー)が、ミクマク族やマリシートの頭皮を剥ぐことに懸賞をかけた〔Grenier, p.152〕〔Faragher, p. 405. 参考文献に詳しい記載なし。〕。 フレンチ・インディアン戦争が勃発すると、アカディアにおける戦闘は激しさを増した。ボーセジュール砦の戦いでのイギリスの勝利と、沿海諸州からのアカディア人の追放が始まり、イギリスとミクマク族、アカディア人、マリシート民兵との争いは続いた。1756年4月26日から27日にかけて、カンバーランド砦が襲われ、9人のイギリス兵が殺されて頭皮を剥がれた〔Layton, p. 55〕。
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